茨城県立歴史館 特別展「親鸞−茨城滞在20年の軌跡−」 2010/2/26他 茨城県水戸市緑町2-1-15   
顕浄土真実教行証文類(坂東本)(真宗大谷派・東本願寺)国宝  国宝の教行信証をみる。
親鸞の自筆といわれる。
1冊目、教の巻の字は力強く立派な楷書体でしっかりと書かれていました。
ただし、3月行ったときはページがかわっていて、ちょっと読みにくい書体となっていました。
空海の字にも負けないのではとおもいました。
お坊さんの書かれた字上手です。
一ページに8列の文字の配列となっていました。
全6冊、まったく迫力があり大変立派なものを見せていただきました。
ガラス越しでこの迫力。
実際、手にとって、親鸞様も触ったであろう本を手にとって、においをかいだらどのように感動するものか。
1000年近くたっても、黒々とした墨の色、和紙の強さ。
大変立派です。本物です。
ちょっとなさけなかったのは、何が書かれているのか文章を理解できないのです。
まったくもって、情けない話です。・・・これを読める方は偉いと思います。
その他、多くの太子像、掛け軸、阿弥陀仏等々県内のお寺の大事な宝物を一同に見せていただき感謝いたします。

親鸞歴史講座 歴史館 飛田先生(歴史館学芸課首席研究員)  
■■2/13 親鸞の生涯−歴史と伝承のなかで− 
■資料のなかの親鸞。  
1921年、西本願寺で見つかった奥さんの手紙により親鸞の存在は明らかになった。 
■親鸞の生涯。  
巻子-親鸞聖人伝絵(でんね)、掛幅-親鸞聖人絵伝より知ることができる。
[誕生から比叡山時代]
 [法然門下] 
 [越後国への流罪] 
 [茨城へ 1214年] 
 [帰洛] 
 [入滅]  
■親鸞伝承  

■■2/20「茨城の門徒1−県北・県央・鹿行地域−」  
■親鸞の弟子観。 
歎異抄より 親鸞は弟子一人ももたずそうろう。・・・  
本願を信じる心をおこさせるのは阿弥陀のはたらきであって、私(親鸞)ではない。 
しかし、教えを受けたものは、親鸞を師として崇める。 
師弟関係の成立。 
■県北・県央地域の門徒-大山草庵をめぐって-  
大山村の二つの阿弥陀寺 
浄土宗・阿弥陀寺 浄土真宗。・阿弥陀寺(額田) 
大山と額田に阿弥陀寺がある。
むかしは、浄土宗と浄土真宗は、現在のような宗派の区別はなかった。 
法然の教えを受け継ぐ寺院の位置づけ。 
■鹿行地域の門徒-鹿島門徒と神栖(かみす)地域の門徒をめぐって-  
親鸞と鹿島。   
鹿島地方の門徒  鹿島神宮(神道)と阿弥陀信仰  神栖地域の門徒。  

■■3/6 茨城の門徒2−県南・県西地域−   
■霞ヶ浦の門徒→鹿行地方とともに、鹿島神宮との関連が深い。 
霞ヶ浦草庵・如来寺  喜八阿弥陀 個人宅の阿弥陀堂  
■幸嶋(さしま)郡の門徒。 
 成然と妙安寺  
■横曽根門徒。
 性信と報恩寺  横曽根門徒と北条氏  
  ・・・・3/6の講座は、ほとんど理解できませんでした。  
■■3/13「親鸞以後の茨城の浄土真宗」  欠席 

■■2/28 講演会 今井先生(筑波大学名誉教授・真宗文化センター所長)  
「茨城の親鸞」 開場は、13時の予定だった。
12時前に歴史館に行ったが、長い列ができていた。  
今井先生を近くでみたく、列に並ぶ。
年配のかたが列に並んでおり、皆様お疲れのようだった。  
以下のようなことを今井先生は話されたように思います。
間違っていたらゴメンナサイ。  
今井先生のおはなしは、リズムカルにテンポよく、よどみなく楽しそうに話されます。  
先生の人柄にふれ充実した時を過ごすことができました。
ありがとうございました。 
 (カッコは個人的におもっていること。今井先生の考えではありません)
■親鸞伝研究と茨城県史研究。  
親鸞研究の現状、中世史研究の進展、茨城県県史の進展。  
浄土真宗では、50年ごとにエベントがある。
2011年は、750年のエベントがある。  
今井先生としては、親鸞の活動、残したものは文化としてもとらえたい。  
親鸞のイメージが50年前と現在とで変化しないこともおかしい。  
研究も進んでいるのだから当然、親鸞のイメージも変わるはずである。 
 (750年も時が過ぎているのに本当か、イメージを変える必要性がどこにあるのか少し疑問にもおもう)  
■親鸞の茨城入りの前提-定説とその変更-。  
○[定説 恵信尼は越後の豪族の娘]  
京都で結婚した。
関白九条家に仕えていた、家司、三善家の娘。
 (吉川英治さん親鸞では、関白九条家の末娘となっていた) 
○ [定説 承元の法難は朝廷と仏教会あげての弾圧によるもの]  
上皇の怒りをかったもので、仏教会すべての怒りをかったものではない。 
上皇が熊野に行っている間に、ふたりの仕えていた若い女の人が出て行ってしまったため上皇が怒った。 
[定説 親鸞の越後での生活は苦しかった]  
いとこ?の日野宗業が国の偉い役職となって越後にいったため、親鸞の越後での生活は楽だった。 
親鸞が流罪人となり越後に行くことが分かり、それと前後して、いとこ?の日野宗業が国の役人として越後に行っている。
 (吉川英治さん親鸞では、越後の国では大変な生活を強いられています。
後には、かなり改善されたようです・・・。)  
○[定説 関東の荒野に一人立つ親鸞]  
当時の常陸国は国に納める税が多かった。
豊な土地であった。馬もたくさんいた?  
宇都宮氏をはじめとしたスポンサーもいたとおもわれる。 
 (風土記では、常陸国は、常世のくに、豊な国と記載されていた) 
 [定説 親鸞は一文不知で無知蒙昧の人々に初めて念仏を伝えた。]  
・・・常陸のひとは字も読めない? そんなことはない・・・。 
○ [定説 親鸞から関東への旅では聖徳太子堂に泊まってきた]   
家族でとまれるほどの聖徳太子堂が都合よくあったとは思えない。
実際、太子堂も沢山はなかったはず。 
○ (家族で移動、他何人かのついてきている人もいたとおもわれる。 
 寝る場所もある程度スペースが必要。地元のスポンサーがいたのでは?)  
親鸞の活動は、 
■親鸞の茨城での活動  
茨城の活動に関する史料。 
 「親鸞伝絵。」幽棲を占むといへとも道俗跡をたつね・・・  「最須敬重絵詞」
常陸国して専修念仏をすすめたまふ・・・・ 
 「恵信尼書状(年月日不詳)」幸井の郷と申ところに候し時、夢を見て・・・・ 
 「恵信尼書状(弘長3年2月10日付)」千部読まんと候し事は・・・・ 
 「恵信尼書状(恵信尼82歳の時と推定)」六角堂に百日こもり・・・・ 
 「歎異抄」弥陀の誓願・・・・摂取不捨の利益に・・・・ 
 「歎異抄」ただ念仏して、弥陀にてすけられ・・・・ 
 「夢告讃」弥陀の本願信ずるべし・・・・摂取不捨の利益にて・・・・ 
 「恩徳讃」如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし・・・・  
生活の保障は、下野国南部から常陸国笠間郡領主の宇都宮頼綱の援助があった。  
笠間郡の東隣の小鶴荘は、関白九条家の荘園。京都への連絡も簡単にできたのでは。  
常陸国と稲田郷の実態。  常陸国。  大国、親王任国。  稲田郷。  大神。稲田神社。 
 稲田神社は、社の格が高く、当時は広大な土地をもっていた。
西念寺も神社の敷地内だった。  
■茨城での住所と布教活動。
布教活動には、奥さんとの共同作業が多かったのでは。  
布教と子育て、親鸞も奥さんも苦労したとおもわれる。  
布教の困難性。  「いなかの人々」「いし・つぶてのごとくなる我ら」。  
親鸞と面授の門弟の伝統。  
■帰京後の親鸞と茨城
 [親鸞の帰京]  
生まれ育ったところに帰りたいとの想いから、親鸞は京都に向かった。  
当時の平均寿命は50年くらい。
60歳をこえていた親鸞が、故郷をおもい京都にむかったのでは。  
家族は、どうか。奥さんは、新潟にいった。
新潟には奥さんに関係した土地があった。お金を得ることができた。
こどもは、皆独立し、京には行く必要性は薄かった。  
結局、親鸞は家族とわかれひとりでいくことに。
しかし、末娘は親鸞の世話を京都で行っている。  
娘のこどもが本願寺をつくることになる。  
西本願寺、東本願寺にわかれたが、これは生きるが為、教団を存続させる為だった。  
奥さんは、親鸞と京都に行動をともにしなかった。  
仲が悪かったのではなく、当時の生活は現在とは異なり、「死ぬまで一緒」ということはなかった。  
男は何人でも妻をもつことができたし、女も何人もの夫をもつことができた時代。 
年をとってから別々に暮らすことも一般的であった。  
親鸞の京都での生活のための資金は、茨城県の門徒からの仕送りによる。  
[茨城の門弟] 
 [古い恵信尼絵像と木像など]     
恵信尼は、茨城のひとに慕われた。尊敬された。
 [聖徳太子信仰]  
どこのお寺に行っても聖徳太子を祀ってある。
親鸞が尊敬した聖徳太子。 
質問タイム  
■親鸞のお母さんは義経といとこ?  
日野家は、源氏方に味方したこともあったから源氏側とみられることもあるが、
当時はそれほど源氏と平家明確に分かれていたわけではない。
義経といとこ関係はない。  
■水戸徳川家は浄土真宗にたいしどうであったか。  
厳しくあたった。水戸家は御三家で実際の石高よりも多目の石高を示していた。
そのため、お金のやりくりが大変だった。  
そこで土地の拡大が必要だった。そのためお寺の統合ね神社の統合を考え、お寺につらくあたった。 
 (東海村の願船寺など徳川家に反抗した為焼かれてしまった)  
■茨城県の浄土真宗は多いのか。  
茨城県は、他の宗派にくらべ低調。10%くらいか。かなり低調。  
多くの弟子がおり、お寺もあったが、武士の時代戦いがあり、新しい武士の一団が持ってきた宗派になったため。